さしもしらじな

アイドル系のデトックス諸々

ウエストランドと幾らかの雑文

 

 

「当日」

僕はM-1グランプリを見るつもりがなかった。

というのも、当日は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最終回があったのだ。

僕は物事を見るときは初めから最後まで見なければ基本的に気が済まないタイプである。それができないなら見ない方がマシ、とも考える。さいあく途中から見るのはアリでも、初めはコッチをみて途中でアッチに切り替えて終わったらコッチに戻ってくる、みたいなのはかなり抵抗がある。それなら最初から見ない方がいいと考える。

また、お笑いにおいてはネタ至上主義というのもある。後で公式からネタが上がるのだからそれを見ればいい…それさえ見れば満足、そういう人種である。

ただこの『鎌倉殿の13人』のラストがまぁ、感情のやり場に困る作品だったのだ。いや、大河ドラマ自体を見るのもかなりひさしぶり、キチンと毎週追ってラストまで見終えたのなんていつ以来?レベルなのだ。その物語の終わりが綺麗でありながら美しくはない…という圧倒的な出来だったのだ。

その圧倒さのなかにはラストシーズンにおける義時…小栗旬の演技の苦しさもある。義時はその時その時でベストな選択を理知的に行ってきた。ただその結果、圧倒的な孤独の中に没入していき義時は感情表現の多様さを失っていくのだ。笑うこともなくなれば、楽しむ心もなくなり、最後には怒りすらなくなり…無表情か泣くかの二択しか無くなった。「小栗旬の演技は泣いてばかりだ」というのも見かけたけれど、それ違う。「感情の表出手段として泣くことしか許されなくなっていた」が正しい。そしてそんななかでラストに訪れた「報いの時」は確かに苦しい場面ではあったのだけれど、それでもようやく素の感情を持った人間の姿に “戻った” 瞬間だった…

のだけれど、こう終わられると僕としては感情を持て余してしまう。というわけで、「M-1見てみっか…」と半ば感情の留保先として考えたのである。

それでチャンネル回せばなんとびっくり残っていたのはキュウとウエストランドのタイタン勢。「そんなことある?」と思っているとキュウが9番目に出るという、これまた「そんなことある?」という具合。「そんなことある?」って時は見てしまうのも僕の性…そしてキュウが終わりウエストランドの番が来る。ふと「ウエストランド…どうなるかわからないけれど最終決戦まで残ったら最後まで見るか」とそう思っていたら、残ってしまったのである。

 

「空気」

そもそもウエストランドに思い入れがあるかと言われれば微妙である。まあ、『太田上田』にたまに出るくらいだしなぁ…みたいな。ただ去年僕に巻き起こった “大ランジャタイ旋風” の結果、東京の地下芸人全体の解像度が上がり、そこでウエストランドがどういう立ち位置なのかが分かったのは今回の視聴にかなり大きく反映されている。なんとなく、“爆笑問題が所属するタイタンの若頭” という印象だったところから、“周りから厄介で嫌がられてる人間だけど、なぜか愛されてもいるし頼りにもされている井口さんとキャンプ好きのもう一人” というくらいには。とはいえ、王者になるかどうかは甚だ微妙…というところだったか。

しかし、M-1グランプリ一回戦の動画である。ウエストランドの一回戦は “圧巻の出来” だった。最高濃度の2分間と言ってもいい。どこを切っても本音、どこを切っても生々しいリアル、ギリギリ観客に吠えても引かれない一線を守りながら、そこには魂が乗りすぎてもいた。うん…“圧巻” 。

実を言うとそのあとはあまりきちんと追えないまま当日を迎えていた。ま、ライトなお笑いファンなんてそんなものである。

当日、当時刻…10番目に出たウエストランドは必ずしも観客に迎え入れられていたというわけではなかったと思う。おそらく観客も笑い疲れていたし、今のメンバーで決まりだろうという高を括っていた…そんな空気。前の出番がキュウというのも大きいかもしれない。ローテンポの漫才で冷め切った訳ではないけれど、テンション自体は落ちていた感じもある。

が、それは同時にラッキーだったのかもしれない。(キュウには悪いけれど)観客は休憩後でリラックスしていたし、それでいて空気がリセットされていたところがあった。そんななか出たウエストランドは初めこそ微妙な雰囲気だったけど、途中から空気を掴んでいっていた。井口さんが話せば話すほど観客が乗ってくる。そして「やめてくれー」と語りかけた瞬間に完全にウエストランドの空気に持っていった。

「これはいったかもしれない」…うん、“かもしれない” だ。僕はこの時点で他のネタを見ていない。だから確証はない。ただ “かもしれない” は3位通過として現実となった。

面白い。もう既に、面白い。

さて、3位通過なのでそのまま続けざまにウエストランドが出てくる…自分たちを受け入れる空気のなか。そんななか、河本さんの「オリジナルのあるなしクイズがあるんですけどやりますか?」この一言で観客が笑い「たまたま好きなんで」の井口さんの答えで釣られて笑ってしまう。「オマエ、さっきまでやってたやろ」と観客の誰もが突っ込んだに違いない。そういうもんだ。

僕からネタの内容云々は言えない。アドリブ感を感じさせながら…ドライブしていく漫才。井口さんのリアルで生々しい言葉と、河本さんのそれに対する淡々としたリアクション…それに笑う観客、ウケてるのをみて頭を抱える審査員たち、最高の構図である。絵として完成されてしまった。

ロングコードダディにしてもさや香にしても上手いし、面白かった。しかし、この空気に飲まれていたと思う。特にさや香さんが出だしの名乗りで噛んだ瞬間の危うさったらなかった。(しかし、そこから持ち直したのはさすがだった!)

あとあと朝の情報番組を見た人たちがウエストランドのネタを見て「なんでこの人たちがチャンピオンなのだ…」と不満を述べていたのだけれど、それもわかる。ただ本編を見れば明らかに空気を持っていってたってのがやっぱデカい。ま、後ろ指差すやつはたいがい無知で学ばない人たちなので気にしない方が得策ではあるか…。

 

「感動ポルノ」

僕は “感動ポルノ” が大の苦手だ。

別にドキュメンタリーが嫌いなわけではない。

ただ、そこに作為的なものが少しでも見えたら一気に興醒めしてしまう。人間は生きてるだけ、それだけで面白いのだ。それを記録して見せるのになんの悪いことはない。でも感動させようとして道筋をつけた瞬間、それはフィクションだ。美しくない。『熱闘甲子園』とか見てられない。

なんとなくだけれど、『M-1グランプリ』の『熱闘甲子園』化が今年は見えたのだ。やけに劇的な演出をしようとする意図が透けて見える。僕はこういうのに目敏い。いや、疑い深いだけか。

実感としてあったのは金属バットとランジャタイの二組が3回戦で落ちたとき。別にインディアンスやゆにばーすも落ちてるのだから不思議ではないのだけれど、どうにも引っかかる。たぶん引っかかったのは、たとえこの二組のどちらかが優勝した場合、感動路線には向かわせないような気がしたからだ。他にも真空ジェシカの川北さんみたいなボケマシーンはいるけれど、それでも感動路線には乗れる気はする。でもこの二組はノットアンダーコントロールすぎる…それを嫌ったのではないか。

そうやってあとあと物語化しづらい二組を3回戦で落とし、金属バットのように上がったとしても準決勝で落とせば問題ない、なんとコントロールしやすくクリーンな大会運営!と、まあそこまでは思っていないのだけれど、まあそんなところだった。

まあ、そんな物語化しにくいランジャタイと金属バットをラストイヤー組として括り、PVに出演させることで物語の一つに組み込んだことに一抹の怨嗟を催しつつ、当日まで来たならばウエストランドの決勝ネタである。なんとも痛快。

そう考えるとウエストランドはかなり計算違いだったのではないかと思う。いや、3回戦と準決勝のネタを見てないからわからないので同じネタで上がっていたのかもしれないのだけれど、でもやはり計算違いだったと思う。審査員の判定も含めて。

そして残る言葉はやはり、痛快。これに限る。

 

「本質」

さて、話は少し変わる。

僕はゆにばーすの川瀬名人が好きだ。正確にいうと今年のビジュアルが好きだ。なんか進化している、ビジュアルが。不思議な話なのだけれど、東京の芸人は時間が経てば経つほどキャラ化が先鋭化していく。この人はこういう格好をして、こういうキャラ、こういう芸人の生き様である、というのがビジュアルでわかるようになってくる。今年の川瀬名人のビジュアルは “漫才の変態” として完成された感じがするのだ。滲み出る “変態感” が素晴らしい。そしてそれに釣られて2回戦終わりのインタビュー動画を見たのだ。

そこでは去年の敗因に関する考察が述べられていた。要約すると「去年の決勝で反響を呼んだ漫才師たちは、みんな自分の本質を見せていた」と。(そしてそれに合わせて自分も本質を見せるネタづくりをした、と。)

ウエストランドのネタを見るたびにそれを思い出す。あのネタは井口さんでしかない。等身大の紛うことなき “本質” ど真ん中。確かに、ネタの構成は考えられてはいる。しかし、“演出” はされていても “演技” はしていない。偽りのない “ドキュメンタリー” であった。

ロングコートダディさや香も面白かった。しかし、ウエストランドのあとに出てしまうと “演技” もしくは “フェイク” の部分が際立ってしまう。しかも完璧であれば完璧であるほど。

何が恐ろしいって、河本さんが本番で進行とはほぼ関係ないところとは言えふつうに一箇所飛ばしている点だ。こんな不確定な要素を抱えてやってるのだ。ドライブ感が違う。

ある意味、キュウが言っていた “完成された4分間” とは対極にある価値観だ。しかし、この価値観の違いが漫才の面白さだ。

僕はゴリゴリのフィクションも好きだし、剥き出しのドキュメンタリーも好きだ。(じゃないとランジャタイにどハマりしない)そして今回は剥き出しの本質で吠えに吠えたウエストランドに観客みんなが圧倒された。

 

「助言」

ウエストランドが所属しているタイタンの首領、爆笑問題の太田さんは賞レースの審査にどちらかと言えば否定的である。“笑い” というのは価値観に固定されるべきではない、という考えがある気がする。(ただ、賞レース自体は否定してない。若手が出る登竜門として認めているし、今回のウエストランドの優勝も、なんなら一番喜んでいるような気さえする)

なので、太田さんがどんな助言をするのか気になったのだけれど、良いなぁと思ったのは「目の前の観客を相手にしろ」と言っていたことだった。なんか、すごい爆笑問題っぽいなぁっていうか。

完全な『太田上田』フォロワーである僕は、それなりに爆笑問題のこれまでもそれなりに知っているつもりだ。売れたかと思えば事務所を独立して干され、また戻ってきたかと思えば漫才をいまだに続け、最近ではYouTubeでコントも始めた。飽くなき笑いへの挑戦。

でも、どこかにあったのは「目の前の観客をとにかく笑わせること」その一点だけだったのかなぁと。非常にシンプルだけど、それに越したことはないのだ。

そんなウエストランドの漫才がしっかりと観客に受け、しまいにはダウンタウン松本人志に認められるというのが最高だ。しかも爆笑問題の代名詞でもある時事の毒舌漫才である。ダウンタウン松本人志爆笑問題太田光には色々な交差点があったけれど、一番痺れた瞬間かもしれない。

 

「歴史」

「歴史を塗り替えてくれ」とあるが、歴史は後世から “編纂される” ものであり、今この瞬間に “塗り替わる” なんてことは一切あり得ない。(歴史修正主義というのも個人的にはおかしくて、歴史なんてものは見る人や解釈する人によって本来幅があるものなのだ。というか、修正され続けるものだし、本来的に。ある偏った考えによって “事実が曲解される” というのであればまだわかる。)大きな勘違いであるし、あたかも “物語化しよう” という気概が先走ってるとさえ思える。

しかし、残念ながら現実は瞬間の連続でしかない。意味は後からしかついてこない。物語は後からしかわからない。次の瞬間なにが起こるかわからない、だから面白い。

最終審査で審査員たちが頭を抱えた瞬間、色々考えたと思う。三者三様の漫才ではあったけれど、勢いではウエストランド、上手さではさや香の二択だったように思う。そして “大人なら” さや香を選ぶべきだということもわかっていたと思う。

そんななか僕はこうも思う。「他のみんなは “大人だから” さや香に入れるだろう。だから私一人がウエストランドに入れても問題ないだろう」。そう、ウエストランドに入れた審査員全員が考えたのではないかと。

これは僕の頭の中の物語だ。客観的に確かなのは、ウエストランドが優勝したという事実だけである。歴史は事実と事実を結ぶ物語に過ぎない。そしてそれはノットアンダーコントロールである。人間は理知的であろうと思わないと、自らを制御できないのだ。いや、ひょんな弾みで感情に突き動かされれば、自らの制御すらまともに行えない。反対に制御に走りすぎるとそれもまた恐ろしい。それが人間の幅である。だからこそ人間は面白い。今後とも笑って生きていきたいものだ。