さしもしらじな

アイドル系のデトックス諸々

竹内朱莉【煌々舞踊】(文字がリズムを持つとき)

 

15分押しで原宿駅から迷いながら辿り着いた、展示室に入った一文字目を観たときに思い出したのは岡本太郎であった。岡本太郎には “書” の作品があり、それを思い出したのである。そしてそのあと「岡本太郎の作品は文字のない “書” である」という言葉を思い出した。問題はニュアンスしか覚えておらず、その上、誰が言ったかをまるで覚えてないことだ。

次に芋づる式にズルズルと記憶から掘り起こしたのはジャクソン・ポロックであった。正確には名前を思い出すのにかなり時間がかかっているが。ポロックの即興性の高いペイント作品…その形こそ違えど “一筆入魂” を関連ワードとして脳みそが提示してきたんだと思う。

さて、このジャクソン・ポロックの名前を思い出すまでもがまた面白い。とにかく、“アメリカのモダンアートの先駆” という語彙で脳みそに検索をかけるとどうしてもアンディ・ウォーホルの名前が邪魔をしてくる。作品もポップだが、名前もポップなのがこの芸術家の憎いところである。

そこでアプローチを変える。“ジャクソン・ポロックのロボットを作った人と作品” で意図的に違う検索をかけると蔡國強が出てきて、『農民ダ・ビンチ』から、“ジャクソン・ポロック” の名前が出てくる。ふむ、アプローチを変えるというのは大事だ。そしていまだに記憶に新しいパラソフィア。やはり、あの頃にどっぷり芸術祭に浸かっておいたのは正解だったようだ。

さて、そんななか最後に出てきたのは白髪一雄である。足で巨大な絵画作品を描くという変わり者すぎる作家である。そのダイナミックな作品を観る予定だったのだけれど、コロナ禍で飛んでしまったのも思い出した。残念無念。

 

そんな絵画作品をズルズルと思い出しながら目の前の “書” を眺めると “絵画” と相対化できるから不思議である。(ここを、“絵” と著すか、“画” と著すか、“絵画” と著すかでセンスが問われるところ。)

“書” と “絵画” の違いは “形” と “意味” の規定が強いことだろう。無論、そこそこな年数を日本で過ごしてきているので、“書” にもさまざまな形…いわゆる「草書」なり「楷書」なりの文字の形の幅がある事ぐらいは知っているのだけれど、それでも根本である “字画” から完全に逃れることはできない。“意味” もまた同様で、“敢えて反対の印象を与えるように書く” という捻ったやり方もあるのだろうが、どちらの道 “意味” から完全に逃れることはできない。そういう意味では作家に許されていることはかなり限定されているだろう。そして、おそらく今まで僕が “書” という芸術に対して何の面白味も見出せなかったのはこの一点に於けるのだと思う。「だって誰が描いても一緒じゃないか?」この一点張りである。

ただ今回、引き出された数々の作家の作品と意識的に相対化したとき、一つの自由な部分…いわゆる “作家性” が見出せるところを見つけた。それが “リズム” である。

人間は文字をその手で書くとき…それは筆であろうと鉛筆だろうとボールペンだろうと…文字を書くときにはリズムが発生するのではないか?踏み込めば、“字画に規定されたリズムとの対話のなかで文字は描かれるのではないか?”

そう見ていくと、目の前の “文字” というものがナマモノのように活き活きして見えるから不思議である。言葉の選定から意味を咀嚼し、体内にエネルギーを充填してその筆先に力を集中させ、後戻りの効かない一瞬を刻む…ふむ、それはなんとも芸術である。

おそらく、このことに敏感になったのは竹内朱莉というアイドルを知っていたからだと思う。要は、ひとつひとつの作品に刻まれているリズムは彼女のパフォーマンスに見出されているものとなんら変わらなかったからである。(もとい、竹内朱莉というアイドルがリズムに対して先天的に恵まれていて、かつ体力という点においても優れているからこそ、書道家として一発に込める “自分のイメージを紙に落とし込む再現性” が高くなっていることも見逃すことはできないだろう。これによって、どんな文字に対しても、またはどのような大きさでも堂々と向き合えるというわけだ。)

このパフォーマンスの素晴らしさは会場のモニターでも確認できる。というより、今まで色々な媒体で見てきたことを思い出す…『石田のパン』とか『ロックの定義』とか…あの、“作家自身が持っているリズム” が直接作品と繋がっている。(そういえば、前述のジャクソン・ポロックにはアメリカの先住民の思想が見出されるというのも聴いたことがあるのだけれど、それもリズムと関係あるのかしら…そういえばハロプロの16ビートのルーツは洋楽のR&Bにも起因するのだけれど、その “ブルース” はアメリカ先住民の無意識の影響下にあるとも聴く…)(てか、引用が不確かすぎてダメダメだな。)(ジャクソン・ポロック岡本太郎、白髪一雄はそれぞれ描く過程が映像として残されている芸術家だったはず…描くリズムから作品を捉え直す、という展覧会とかも面白そう。)(蔡國強の『農民・ダビンチ』…実質ロボットが作品を作っているのだけれど、その “リズムが特異” という意味では “オリジナル” なものなのかもしれない。反対にAIが描くグラフィックにはリズムがない。人それぞれのリズムのなかに芸術たる所以があるとするならば、今を生きている我々にも多少の救いがあるものだ。)

PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭2015 蔡國強 農民ダ・ヴィンチ - YouTube

「石田のパン」書道ロゴデザインの様子を大公開! - YouTube

ちなみにこの一瞬を刻み込むという作品は墨を使った芸術…例えば “水墨画” のような作品と非常に相性がいい。本当にいい水墨画のあの大気まで見える感覚…それは湿度の高い日本という気候を表すのに非常にマッチする。(ということを、学芸員資格の実習先で観た雪村の作品で知ったことも思い出した。墨の濃淡や掠りというのは偶然性も多いのだけれど、それは静物でありながら限りなく動的である。リズムが優秀であれば優秀であるほど、その “動的なバイタリティ” は永遠性を持つのでは?)(反対にいうと油絵は非常に静的で、それは永遠性に固執するものでもある…)(文字が下手な人っていうのは、反対にいうと “字画” に於けるリズムへの理解が低いということに繋がるのだろうか?文字における肉体性…)(さおりフォント…)

 

さて、“書” は“意味” にも規定されるという話もしたのだけれど、ここにも重層的な意味合いがあることを確認したい。一つ目はもちろん、“文字自体が持つ意味” であるがもう一つは “選定された意味”…もっというと “誰へと贈られた言葉なのか” …ということだ。

今回の展示会だと、“与えられた題” と “メンバーへ当てた題” 、そして “自分への題” の三つが見られた。

“与えられた題” に関しては幼少期からのモノを見ると、その “字画の形” へのアプローチの自由さがだんだん広がっているのが良くわかる。(で、幼少期のものはやっぱり僕の知っている “つまらない作品” だったりするわけだ。とはいえ、この基礎がないと次へのステップに進めないのも事実である。)(反対にいうと、書の先生方は生徒の字画の正しさを観ながら、その先のリズムを感じているのかもしれない…?)

注目すべきは “メンバーへ当てた題” で、ひとりひとりへ違う言葉を贈りながら、字の形もよくよく見ると変わっていたりする。(例えるならば、佐々木莉佳子さんへ当てた “無” と、橋迫鈴に当てた “無” には表現の点において開きがある。もちろん、熟語としてのバランスもあるが)

ここで行われていること、それは “リズムでの対話” なのではないかと思う。若しくは “メンバー一人一人とのリズムを通した同期作業” ともいうべきか。自分のリズムじゃない、他人であるメンバーが持つリズムを通すことによって、書かれる文字自体が変わっていく…そんな印象を受けたのだ。

さて、三つ目の “自分への題” …ここに関しては正直時間切れの感がある。ただわかるのは、墨をたっぷり含んだ太い線でどっしりと構えて書くのが作家の想うの “自分らしさ” “作家性” なんだろうな、ということだ。

(まさか、45分も鑑賞して時間が足りなくなる事態になるとは思わなかった。ただ遅れたからこそ、この文章があるとも言えるのでなんともいえないところだ。物は言いよう。)

(これ以外の題はあり得るのかという話になると、“奉納物” というのが挙げられるだろう。もしかすると、博物館に飾ってある “書” の数々も神や仏への畏敬、若しくは “書” を写すことによって自らの身体にその教えを同期させる敬虔な作業の成果と捉えるとより凄味がわかるのかもしれない。)(もしかすると、“教え” そのものはもちろんのこと、 “字画” それ自体のリズムが神仏のリズムと重なるのではないか?それは古くから伝わる詩の韻律よろしく…なんと密教的。)(そう思うと、幼少期の退屈な書写の作業も途端に悪くないものと思える不思議。そして、そのことを怠惰に終えてきた自分への戒め。)

 

まあ、個人的にひさびさの展覧会…しかも “書” なんていう自分のかつての専門分野と全くかけ離れた展覧会でここまでだらだらと書き残す羽目になるとは思わなんだ。竹内朱莉はやはり偉大な芸術家なのだ。(まとめの小物感)